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私はいかにしてプロデューサーになったのか(第1回)

「フロムさんの大きなお世話~プロデューサ逍遥記」の3回目。
色んな設定に戸惑いながら、ブログを始めています。
「フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編」は今年の12月でまる8年。
このブログも、それぐらいは続けたいと思っていますが、その時まで私のポテンシャルがもつのかどうか。
自信はありませんが、とにかく一日でも長く書き続けようと思っています。


■私はいかにしてプロデューサーになったのか。

私がプロデューサー的立場になったのは、東京支社に転勤になってからです。
私は大阪のFM局に就職し、その後、編成担当、制作ディレクター、営業部外勤、そして又制作ディレクターという形で人事異動されておりました。
大体、一つの部署に3~5年だったでしょうか。
その経験の上に今の私があると言っていいでしょう。
放送局の機能というのはおおよそ身体の中に叩き込まれたのだと思います。

■ワンマン白木龍雄氏

さて、そういうわけで、大阪の制作ディレクターとしてバリバリ働いていた私に、ある日入社以来本当にお世話になった方(朝日新聞出身の当時の副社長)から直々呼ばれ、「お前、悪いけど東京行ってくれるか?」というお達しがありました。
今はお亡くなりになりましたが、白木龍雄さんと言います。
とんでもないワンマンおやじでしたが、私は別に嫌いではありませんでした。(社内では苦手な人が多かったようですが。)
大阪では、まあまあやれることはやったかなと思っていた私は、抵抗なく東京行きを承知しました。

■東京転勤は、懲役3年と変わらない
社内では、東京への転勤を喜ぶ人などほとんどいません。
大阪の人間は東京を毛嫌いする人が多く、他の人からさんざん断られたあげく私のところに話が回ってきたのかもしれません。
局内では、東京に行っても何も良いことはないというのが当時の空気でした。
大阪にいれば、今までどおりのことをしていればよい、東京に行くとすべては一から始めないといけないし、東京で頑張ったからといって、社内で別に評価されることもないというのも現実だったようです。
東京転勤は懲役3年と変わらない、とにかく3年我慢すれば、また大阪に戻らせてもらえる。
その日を首を長くして待つ、それが大阪から転勤を命ぜられた社員の大多数の思いだったのではないでしょうか。

■東京支社の日々

放送局の東京支社は、やはり本社と比べてすべてに不自由な感じがします。
事務所も狭いし、社内の設備は貧弱だし、外に出ても、知名度ははるかに劣ります。
当時の支社は、営業部、ネットワークデスク、それに私の所属する制作部がありました。
支社の仕事というのは、基本的に営業のための東京窓口ですから、どうしても社内の雰囲気が営業優先になります。
朝早くから営業会議に列席させられたり、何かの時に代わりに会合などに出席させられたり。
私の仕事は東京支社制作の番組管理という位置づけにならざるをえませんでした。
つまり、制作会社の面倒をみる差配人という感じでしょうか。
とてもプロデューサーなどというものではなかったのですが、ただ制作会社が提案してくるものを受け取ったり、管理したりしているだけでは楽しいはずもありません。
とにかく、これじゃ東京にいる意味もないなあ、大阪にいた時の方がもっと充実していたし、自分の頭の中ももっと活性化していた。
私は、このままじゃないけないなと迷いながら、最初の年を終えようとしていました。

(続く)


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100以上の番組、ライブを中心としたイベント、舞台、映画など、専らクリエイティブな世界に身を置いて30年。
言いたいことは一杯あっても、口に出せないことだらけ。
せめてはその一部でも書き残そうと試しに作ったブログ。
いつまで続くかは皆さん次第。


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